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五斗蒔街道

美濃焼 事始め


2020年夏…コロナ禍の中、岐阜県の鬼岩温泉で、娘夫婦と一緒に主人の誕生祝をしたことが、その後の大きなきっかけとなります。

多治見が近いので、娘夫婦は、幸兵衛窯に私たちを案内したいとのことでした。

娘には話していなかったのですが、幸兵衛窯は、実は、私には訪れてみたい理由がありました。40年以上昔、母が加藤卓男先生と一緒に仕事をしたおりにいただいたという平茶碗を、私は母から譲り受けていたのです。が、箱も書付もないので、本当に加藤卓男先生の作品かどうか確かめてみたいと思っていました。ただ、私にとっては初対面になるわけですから、臆する気持ちが先に立って、ついそのままにしていました。

その日、幸兵衛窯の見学を終えて、受付の方に恐る恐る茶碗の話をした所、本来ならいらっしゃらない亮太郎先生がいらっしゃるとのこと。出てきてくださった亮太郎先生に、直接事情をお話しすることが出来ました。

その茶碗は、後日、卓男先生の作品ではなかったのですが、先代である五代目幸兵衛作であるとお墨付きいただくことが出来ました。

このことがきっかけとなり、幸兵衛窯と母との繋がりを娘に話しているうちに、母のしてきたことを孫である娘に伝えつつ、一緒に美濃焼を調べてみようということになりました。

 

陶磁器は、娘も私も好きで、いろいろな産地を訪ね歩いていたのですが、いざとなるとどこから勉強を始めたらいいのか見当もつきません。そんな時に娘が、加藤卓男先生の「美濃」という本を見つけてきました。しかもその本の見開きには、編集協力として母の名前が書かれていました。

 

 

私達の美濃焼研究は、この本からスタートします。 

五斗薪街道を眺める


この本が出版されたのは昭和50年、今から45年前のことです。そこには、桃山時代や江戸時代の多くの作品の紹介とともに、”今日の五斗蒔街道”という写真が掲載されています。道路は舗装されていますが、すすきと竹林と木々の中に、古いわらぶきの家がポツンと見える景色です。キャプションは”土岐から久々利_-現在の土岐市泉町五斗蒔付近  桃山から江戸時代にかけて、多くの陶工たちが通ったであろう昔をしのばせるしずかなたたずまいの道である”となっています。私達は、45年前、母が昔をしのびつつ眺めたであろう場所の現在の姿を何としても見たいと思い、娘と車を走らせました。

現在の五斗蒔は、大きな交差点となり、交通量も多く、付近の家も新しくなっています。が、遠くに見える山並みは45年前の写真そのものです。かつて、母が立ったであろう地点に私達も立ちながら、あの戦乱の時代だからこそ生まれてきたであろう志野や織部などに思いを馳せていました。