瀬戸窯と美濃窯の陶祖
瀬戸窯(愛知県瀬戸市)は、愛知県名古屋市の北東20kmに位置し、美濃窯(現在の岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市一帯)は瀬戸窯から山を挟んで北部に隣接している。両地域とも良質の陶土に恵まれ、古来より陶工の移動を繰り返し、密接な関係性の中で陶磁器を生産してきた。こうした考古学的な観点とは別に、双方には「陶祖」が定められている。
瀬戸窯は、鎌倉時代に加藤四郎左衛門景正(藤四郎)によって開窯されたと言われている。藤四郎は貞応2年(1223年)に曹洞宗開祖道元に従って宋へ渡り、作陶、特に茶入の製法を学び帰国。瀬戸で良土を発見したことから、瀬戸に窯を築いた。その後瀬戸で窯業が盛んになるにつれ、窯屋の正当性を語るに際し藤四郎の系図に連なることが重要視されることとなる。そのような時代背景の中、天正2年(1574年)に信長の朱印状を持って、瀬戸窯から美濃に移住し窯を開いたのが、藤四郎の末流にあたる加藤景春の息子景久と景光であり、それぞれ大平(現在の可児市)と久尻(現在の土岐市)に移住し窯を開いた陶祖とされている。そして、彼らの子孫が美濃各地にさらに移住し、各地域の陶祖となっていく。
このように、瀬戸窯と美濃窯の開窯時期には300年ほどの隔たりがあるものの、どちらも藤四郎の系図に連なることがわかる。
信長の朱印状
景久と景光が美濃へ移住した時期と、信長が美濃を支配下に治めた時期が重なることから、美濃の開窯は信長による産業保護が背景の一つにあると考えられている。
だが、なぜ朱印状が発給されなくてはならなかったのか?大平窯由来書によると、まず景久が大平に移住し窯を築こうとしたが、現地の百姓に妨げられてしまった。そのため信長に訴えて朱印状を発給してもらい、それを持参して改めて大平の地に窯を築いた。ということのようである。朱印状には、大平に窯を築いてよいこと、薪と陶土を自由にとってよいこと、さらには年貢諸役が免除されることなどが示されており、信長により窯業が保護されていたことを窺い知ることができる。
一方、景光が久尻に移住した際の経緯を示す由来書もいくつか存在する。このうち、17世紀後半に記された由来処には朱印状の記載はなく、時の権力者によって権威づけされたことを記すのみである。また、それらによると実際には景光は美濃に移住していないものの、4人の息子が父親孝行として景光を陶祖としたと記されている。実際、景光は移住したとされる年の2年後にこの世を去っている。しかしながら、18世紀前半に示された由来書には景光が朱印状を持参して移住したとの文言が登場する。重要な意味を持つ朱印状の記載が、17世紀後半にはなく、18世紀になって登場するのは不自然である。また、美濃窯にはこの朱印状と同文で宛先を欠くなどの写しが多く作られていたことも分かっており、江戸時代になっても窯屋が権威付けのために信長を利用していたことがわかっている。この景光の朱印状が写しなのか、実際に存在したのかは未だ分かっておらず、謎となっている。
元屋敷窯
こうして久尻に移住した、景光の長男四郎衛門景延が築いたのが元屋敷窯である。元屋敷窯は3基の大窯と1基の連房式登窯から構成され、この連房式登窯が当時の美濃に革新をもたらした。
連房式登窯は朝鮮人陶工によって肥前にもたらされた窯である。焼成室が複数連なり、大窯よりも大量生産が可能になるだけでなく、奥行きの狭い焼成室により温度を均等に保ちやすくなり、余熱を利用した焼成方法も可能になるなど、生産性を大幅に向上させた。この連房式登窯は唐津でも盛んになり、唐津から美濃を訪れた浪人森善右衛門により景延の耳に入ると、景延は自ら唐津まで連房式登窯の築窯方法を学びに行く。そして17世紀初頭に元屋敷窯にて美濃で初の連房式登窯を築いたのである。元屋敷窯の連房式登窯は14室からなる全長24mの巨大な窯で、織部が大量生産された。稼働期間は10年にも満たない短いものだったと考えられているが、その後この連房式登窯構造は美濃全体に広がり形を変えながらも300年以上にわたって使用され続けることとなる。
なお、唐津から連房式登窯の技術を学ぶことができた背景として、当時の領主妻木氏にも言及しておきたい。当時の東農地方は、甲斐の武田氏、尾張の織田氏、美川の徳川氏の勢力の接点となっており、土着の小領主が盛衰を繰り返していた。そんな中、妻木氏は関ケ原の戦いまで領地を守り抜いた領主である。妻木氏は、信長の死後、東農地方を平定した森長可(ながよし)に従う一方、関ケ原の戦いでは東農で唯一徳川勢に味方し、その戦功により土岐郡7500石を拝領している。その領地は、久尻、市ノ倉を含み広範囲に及んだ。そして、尾張出身で唐津藩藩主となった寺沢氏との間に婚姻関係を結び、近しい間柄にあった。こうした関係性により、当時貴重であった築業技術の導入が可能になったと考えられている。
今回、元屋敷窯を初めて訪れて、そのどっしりとした佇まいに圧倒された。また、元屋敷窯に関連する歴史を紐解くことにより、安土桃山時代の茶の湯の流行だけでなく、その時代、その地域の権力者の政策や関係性、そして何よりも陶工のアグレッシブさが美濃窯発展の背景にあることがわかり、とても興味深く感じた。
美濃窯は名古屋駅から小一時間程度で訪れることができ、近くにはたくさんの幸兵衛窯などの窯元や、陶磁器の美術館、オリベストリートなど、陶磁器を存分に楽しむことができる。機会があればぜひ訪れてみてほしい。
写真左:元屋敷窯 写真右:元屋敷窯からの風景
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